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一人の心臓外科医

 昨日、新聞のテレビ欄を見ていて、久しぶりに「これは見ないと」という番組に出くわした。
 NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』。取材した人物は、心臓外科医・天野篤氏。あの天皇陛下の執刀医だ。
 番組が天皇陛下の手術に寄っていたらチャンネルを変えようと思っていたが、そうではなくて天野氏そのものにスポットを当てたまっすぐの投げ下ろしだった。よく撮ったと思うし、よく撮らせたとも思った。最近ではあまりお目にかかれない、ドスンとくるいい番組だった。
 また、天野氏がすごい。
 一週間のうち5日を病院で生活し、年間に400件の手術を行うという。しかも、成功率は98%とか。
 私はうなりながら、「この人の家族はどんな人だろう」と思った。天野氏の思いを感じているのか、共感しているのか、それともあきらめているのか…。あきらめているとしたって、えらい。普通の家族だったら、天野氏は、あんなふうに何でもない顔をして病院のソファで寝られない。バナナを食えない。だって、どんな小さなことにしたって、家族のことは気になるものだから。100%集中できている天野氏を支える家族はえらい。(これは番組とは関係ない感想)
 人は、「何のために自分は生きているのか」と考えるときがある。
 それが見えていて、なおかつそれを行ない、そして確かな手応えを感じている人は強い。
 まさに、天野氏だ。
 きっかけは父親が心臓病だったこと。その父親の最後の心臓手術に助手として立会いながら、助けることができなかったこと。勝手な想像だが、深い絶望があっただろう。父を亡くした絶望。助けることが出来なかった自分への絶望。そのときの医術への絶望。
 悲しみや無力感もあったに違いないが、虚脱するようなものではなく、自分を追い込むたとえようもない苦しみがあったはずだ。
 そうでなければ、いま、「一途一心」などという透明な言葉は出てこない。
 そうでなければ、丁寧すぎるほど丁寧で、細かすぎるほど細かい手技にはたどり着かない。
 そうでなければ、「アントニオ猪木の闘魂」などと言いはしない。
 つまり、こんなにもアンバランスなものが一人の男の中でバランスしない。
 常人が見ることのなかった冷たく苦しい局地から、天野氏はやってきて、いま、病院に住まっている。
 それがよくわかった。
 再放送は、18日金曜日の午前0時50分〜1時38分(木曜深夜)。

at 18:25, 志澤秀一, いろいろな思い

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GW

 

GW前半、「話題の現場に行って見よう」と押上駅からスカイツリーへ。
もちろん、下から眺めるだけ。
なかなかのもんです。
その後、浅草〜上野巡り。
黒船亭のハヤシライスは、いつもながら美味い!



at 20:05, 志澤秀一, その他

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マザー・テレサのこと

 昨日、何の気なしにマザー・テレサの本を手に取って、2時間ほど読んだ。
 私の中では、マザー・テレサは、ある意味でCS・ESの原型を内在した人物(師)として存在する。
 マスメディアなどで「マザー・テレサは、なぜあのような善行ができたのか」「あの尊い行い、他者への愛は比類ない」という偶像化、美化された形容がされているが、(もちろん、マザー・テレサの行いは常人を超えていると認めた上で)私はマスメディアのとらえ方には組みしない。マザー・テレサの信じられないような行いを、「なぜ、できたのか?」という入口から見るのはおかしなことで、マザー・テレサにとってそれは「必然」だったと考えるべきだからである。
 マザー・テレサは、常人を超えたところに“あるべき姿(自分)”を見ていた人に違いない。あるべき自分に向けて一生、一歩一歩歩んでいた。あるべき自分にたどり着くには、世の人が驚くような他者への愛を実践する必要があった。マザー・テレサはわき目もふらずあるべき自分に迫り、そして逝った。最後にあるべき自分にたどり着いたかどうかは、本人しかわからないが。
 マザー・テレサが亡くなった後に、彼女がカトリック教団の司祭に出した懺悔の手紙が公開され、そこに書かれた「私の心の中に恐ろしい闇がある」「あなた(主)から求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました」といった言葉がキリスト者やマザー・テレサの信奉者たちをびっくりさせたことがあった。
 しかし、マザー・テレサがそう書くのは、ある意味で当然の話かも知れない。マザー・テレサは、キリストを「貧しい人」の中に見なさい、と言った。あるべき自分の描く、あるべき世界の、あるべきロジックではそうなる。マザー・テレサは、さまざまな気付きを貧しい人から得たに違いない。しかし、自分が思い描く主が、マザー・テレサにその手をかけ、やさしいねぎらいをかけてくれることはあったのだろうか。
 マザー・テレサの思いが高ければ高いほど、そこには孤独があるように思える。
 マザー・テレサは、自分自身も位置付けているように、神に代わって慈悲をふりまく人ではない。マザー・テレサは実践の人であり、多分最後まで自分自身の献身にこだわった人であったと思う。
 もちろん、マザー・テレサの行いに多くの人が感謝した。マザー・テレサもそのことは分かっていただろうし、感謝への感謝もあったに違いない。しかし、心の奥底で、いつか主自らがねぎらってくれることを待ち望んでいたのではないか、と私は思う。たとえ、それがキリスト者として尋常ではないことであっても。

at 20:37, 志澤秀一, いろいろな思い

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がれきに思う

 大震災後の時代が始まり、1年が経った。
 メディアは悲しみ、苦しみの深さと、それに耐え、それを乗り越えて行こうとする人たちの姿を映し出した。
 しかし、そうした精神や感情の世界ではなく、現実の重みを突きつけ、本当の大震災後を開拓するために、メディアはその力を使っていない。
 がれきである。
 がれきの存在は現実だ。大震災後の復旧・復興の試金石ががれきだ。
 がれき問題が解決しなければ、被災地の復旧・復興はないだろう。
 大震災後、多くの日本人が献金をした。
 けれども、今、多くの人ががれきを受け入れることに反対している。
 それは何を語っているのか。日本人の多くは、被災地の復旧・復興を他人事としているということだ。
 あのときの献金は、同朋に対する心からの支援だったのだろうか?あれは、上から目線の憐れみだったのではないか、と疑ってしまう。
 もちろん、がれき問題の最も重要なところに、政府への不信感があるということは否めないだろう。つまり、放射線性物質が付着していないという政府の言葉を信用できないと考える人が多いということだ。
 しかし、その考えは、被災地でがれきと共にいる被災者を差別することにつながっていく。
 そういう醜い考え方に対して、メディアはなぜ発言しないのか。
 いや、発言などしなくてもいい。ただ、毎日、山となったがれきをずっと映し続ければ良いのだ。音もなく、ただずっと。そうすれば、そのがれきが間違った、利己的な考え方で凝り固まった人に、本当のがれきはその心であることを教えるだろう。

at 20:13, 志澤秀一, いろいろな思い

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親子の日

 ブルース・オズボーンというカメラマンがいる。コンセプターとして売り出し中だった坂井直樹氏の事務所でプランニングのディレクターがいないからと、知り合いのデザイン会社社長から言われて契約した頃、そこで彼に出会った。彼もまだ若く、筋肉質の肉体と時として鋭い眼差しが印象的なカメラマンだった。彼がなぜ日本に来たのかは聞かなかったが、彼が日本を愛しているのはよく分かった。奥さんの佳子さんと娘さんを愛するように、彼はファインダーを覗く視線とはまったく別のあたたかい眼差しで日本を見ていた。
 その頃、彼が始めた写真シリーズが「親子」だった。白バックの撮影スタジオで、親と子のペアを撮影していた。その集大成となった写真集「親子」はかなり話題になった。親と子の絆をバブリーな日本人は忘れてしまっていて、ブルースの写真でその重要性に気付かされたのだ。親子の写真はちょっとしたブームになって、CMなどにも使われた。
 しかし、表現者ブルース・オズボーンには、親子で自分の写真が止まってしまう小さな怖れがあったと思う。僕も一緒になってミーティングし、その頃話題になっていた『イカ天』を軸に『デビュー』というシリーズを作ろうとした。しかし、それは頓挫した。コンセプトに力がなかった。
 『親子』は普遍だ。そのコンセプトを発見したブルースの目は確かだ。白バックという発想は、コンセプトは発生したと同時に生じていただろう。それくらいのものでないと表現は力を得ない。
 力になれないままに、ずいぶんと時間がたった。
 新年明けて、ひょんなことで彼と佳子さんに会った。そして、呑んで、話した。そして、「また会いましょう」とわかれた。
 その彼から郵便が届いた。中を開けると、冊子が入っていた。
 タイトルは「親子の日 7月の第4日曜日は親子の日2011年活動報告書」とあった。
 まだ、こだわってやっていたということだ。20年以上前、僕らは一つのコンセプトにとどまることを怖れた。しかし、時が経って、今は一つのコンセプトを全うする意味、その素晴らしさを実感している。
 ブルース、佳子さん、あなたたちが変わらないことが、イマを創っているんだと、大きな声で叫びたい。



at 22:49, 志澤秀一, 仲間たち

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亡き友に

 1月、亡き友の命日に一杯飲みつつ、へたな俳句を作ったことを思い出した。

宴のあと 駅にひとり 息白し

小美玉に 友の御霊も 雪見かな

喧騒は 我がことににあらず 星冴える

at 22:43, 志澤秀一, いろいろな思い

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大垣のホテルで

 仕事で岐阜県・大垣市のビジネスホテルに泊まっています。
 原稿を書いた後に、TVをつけるとBS朝日でブラジルでのBEGINのライブを撮ったドキュメントをやっていました。
 すばらしい。
 歌もいいが、人もいい。特に、ブラジルに移民した沖縄の人と、その子、その孫たちが。
 そんなすばらしい人たち6500人を前に、思いのたけを歌ったBEGINは幸せだったに違いない。自分たちの生きている、歌っている存在意義を感じたことでしょう。
 涙が出るような「涙そうそう」、「島人ぬ宝」でした。
 「沖縄よりも沖縄、日本よりも日本がブラジルにある」という比嘉栄昇さんの言葉に、TVのこちら側で感動しました。

at 22:18, 志澤秀一, -

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日本が世界の光にならないといけない

 年末には、TVも新聞も2011年という忘れられない年を振り返っていました。
 特に映像の力というのはすさまじく、震災後の時間を経てさまざまな思いや考えを蓄積した私たちに、3・11直後とはまた違った感慨をもたらしました。それらは、復興と再生へと導かれていくのですが、私の中には何かが引っかかっていました。
 それは、これから行く先のイメージの弱さです。
 「次に、100年に1度、1000年に1度という津波が来ても大丈夫な・・・」という話を聞いたりすると、それはその方が良いとは思いつつも、そういったことが目的やビジョンになるのだろうかという気持ちになるわけです。
 何も無い荒野に田畑を造ったり、産業を興したりするのは、人の胸の内の夢であり、その夢が生み出す勇気だとずっと思っています。被災地に夢と勇気を与えるものはいったい何なのか、それが未だにはっきりしていません。
 そして、新しい年を迎えました。まだ、何が夢で何が勇気の源なのか、つかめていません。ただ、「日本が世界の光にならないといけない」という思いが沸々と湧き上がってきています。日本が世界の光になるための夢と勇気を、2012年3月11日までにはっきり手にしたいと思います。
 それが、今年最初のテーマ、ということです。

at 16:58, 志澤秀一, いろいろな思い

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『クリスマスの約束 2011』に想う

 昨日、TBS『クリスマスの約束 2011』をTVで見ました。メインのメドレー(出演アーティストの楽曲を繋ぎ、出演者全員で歌う圧巻メドレー)は「28分58秒」。本当に、音楽の力を感じるステージでした。
 実は、この収録に家内と2人で行って、3階の横の方で観ていたので、ある意味で追体験を楽しんだのでした。さすがに放送では出演者の表情も良く分かるし、ライン録りした音もクリアです。でも、横の方でしたが、ライブはやっぱりライブの迫力があったので、生と放送を両方インプットして2in1という感じでしょうか。
 小田さんは、このステージで大震災や津波のことには触れていませんでした。そのことは言わずに、「28分58秒」という空前絶後のメドレーを仲間と歌い上げ、音楽の力を音楽だけで感じさせたところが小田さんらしいと私は思いました。それがプロフェッショナルな道というものでしょう。
 この年末も、来年も、TVでは「被災地に向けて・・・」というメッセージが何度も発せられるでしょう。でも、そろそろその言葉には流行語のような澱が付き始めています。メッセージではなく、自分のできることで被災地と繋がることが、今は必要になってきているような気がします。
 『クリスマスの約束 2011』は、私の中で、2011年の締め括りになりました。小田さんはじめ出演者の方々に「ありがとう」という気持ちです。

PS:TV放映されたメドレーは、もちろん本番として行われたものでしたが、ライブでは観客のアンコールに応えてもう一度(「僕たちにはこの1曲しかありません!」の言葉とともに)「28分58秒」メドレーが歌われました。こちらは、放送よりもブレイクしていて、ライブ感たっぷりの、すばらしい幻のメドレーでした。

『クリスマスの約束 2011』

出演・オーガナイズ:
小田和正

ゲスト:
 Aqua Timez
 いきものがかり
 キマグレン
 キヨサク(MONGOL800)
 Crystal Kay
 佐藤竹善
 清水翔太
 JUJU
 スキマスイッチ
 鈴木雅之
 STARDUST REVUE
 玉城千春
 中村 中
 夏川りみ
 一青 窈
 平原綾香
 FUNKY MONKEY BABYS
 藤井フミヤ
 松たか子
 宮沢和史(THE BOOM)
 MONKEY MAJIK
 矢井田 瞳
 和田唱(TRICERATOPS)
 (五十音順)

製作著作:TBS

プロデューサー:阿部龍二郎
                    服部英司
演出:柴田猛司
舞台監督:早川康弘

at 17:37, 志澤秀一, いろいろな思い

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重いものを持とうとする者

 「才能がある者が成長するのではない。重いものを持とうとする者が成長するのだ」
 確か、サッカーのコーチの言葉だったと思います。申し訳ないことに発言者のお名前は失念してしまいましたが、ずっと私の内にあって、ときどき浮上してくる言葉です。
 「重いもの」は、難しかったり、嫌だったり、他の人から変な目で見られたりするものであることが多いものです。
 また、「重いものを持とうとする」ときは、当然負荷が増すわけで、失敗を覚悟することもあるでしょうし、自分への“活”がいるものです。
 それを押して、重いものを持つという自分の中の意志が成長をもたらす・・・コーチは、「重いものを持って、成し遂げれば」あるいは「成功する」ことが「成長させる」とは言っていません。まず、「持つ」という意志だと言っています。
 2011年、私たちは重いものを目のあたりにしました。
 この数ヶ月、復興、再生、という文字が多くの情報の中で使われました。
 そのことが違うと思っているわけではありませんが、私たちは「大震災後」「原発事故後」という重いものを自らの意志で持たなければならないのではないかと思います。
 そして、私たちはきっと「成長」しなければならないのです。
 年の瀬に、そんなことを思いました。

at 13:58, 志澤秀一, いろいろな思い

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